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信州シルク物語

長野県産業の礎となった蚕糸業

生糸は、江戸末期の開国以降から昭和初期まで最大の輸出額を占めた産品で、蚕糸業は国の基幹産業のひとつでした。明治5(1872)年には、官営富岡製糸場が操業を開始し、その5年後の明治10(1877)年の時点で、長野県は、繭・生糸ともに生産量日本一を誇る、蚕糸王国となっていました。

その大きな要因のひとつは、長野県が繭を生産する「養蚕」の適地であったこと。江戸時代、すでに国内最大級の養蚕地であった上田地域を中心に、伊那や須坂など県内各地で養蚕業が興り、明治28(1895)年には国内生産量の約21%を占めるようになり、明治45(1912)年には県内農家の6割以上が養蚕を行っていました。養蚕のために拓かれた桑畑は、昭和4年の世界恐慌以降、徐々にりんごを中心とする果樹畑へと生まれ変わり、今日の長野県農業の基盤となっています。

一方、養蚕とともに蚕糸業の両輪をなす「製糸」も発展。最盛期には、国産生糸の約3割が長野県で生産され、そのほとんどを諏訪・岡谷地方が担っていました。信州のシルクの歴史は、今どのように紡がれているのでしょうか。国内最大の生産地であった岡谷市を訪ねました。

01鳥観図

昭和11(1936)年4月の市制施行の際に吉田初三郎氏が制作した「岡谷市鳥瞰図」からは、製糸工場が立ち並ぶ当時の繁栄の様子が確認できます

「糸都(しと)岡谷」の誕生

諏訪湖を中心に、東に八ヶ岳、南に南アルプスが連なり、本州のほぼ中央に位置する諏訪盆地。諏訪湖北西にある岡谷市は、かつては世界一の輸出生糸生産量を誇り、国内では「糸都岡谷」、海外からは「SILK OKAYA」と称された町です。
「水がないところには製糸業は成り立たないと言われるくらい、製糸業に水は欠かせません。この地には、そのための豊富で良質な水があったのですよ」と話すのは岡谷蚕糸博物館の髙林千幸館長です。諏訪湖に流入する31本の河川からは、繭を煮るための水が得られました。糸がほぐれやすい軟水であったという好条件も重なります。そして、諏訪湖を水源とする天竜川からは、大きな動力用の水車をかけることで繰糸機等の繰枠を回転させるための動力を得ることができました。また、水を工場へ引込むための水揚げ水車もかけられていました。

02製糸工場03水車

(左)天竜川沿いに立ち並ぶ製糸工場。(右)天竜川にはこのような水車が数多くかけられていました

技術革新も進みます。明治8(1875)年にフランス式とイタリア式、双方の良いところを取り入れた「諏訪式繰糸機」が誕生すると全国へと普及し、糸都岡谷の名声を一層高めました。さらに、明治38(1905)年には、輸送力を高めるために八王子から富士見までを結ぶ国鉄中央線が岡谷まで延伸。燃料となる石炭や繭が運びこまれ、岡谷の製糸業は、更なる発展を遂げたのです。

04博物館

岡谷蚕糸博物館では、さまざまな製糸機械類をはじめ、シルクの歴史をたどるパネルや資料を展示

05諏訪式

諏訪式繰糸機は、体格の小さい日本人女性が一人で煮繭・繰糸するのに合わせた作業しやすい構成となっています

06館長

来館者に館内を案内する髙林館長

「こうした環境要因と同じぐらい、人の存在も大きかった。片倉家に代表される経営者や金融業の方の知恵や才覚、大勢の工女さんの力やいろんな苦労があったことも、忘れてはいけないですね」と髙林館長は続けました。

07工女

昭和5年の岡谷の人口は76,500人。そのうちの34,500人が製糸工場で働くために県内外から来た女性工員、いわゆる工女さんでした。

08賑わい

工女さんの食事は3食とも工場でとられ、食材も相当量になるため、自家製味噌を作るところも数多くありました。味噌蔵に転業した製糸工場も多く、今でも諏訪地域では味噌製造が盛んです。

蚕糸の今と未来

昭和初期、日本国内に3,300社、岡谷市内だけでも200社を数えた製糸場も時代とともに役目を終え、現在は全国で4社(うち長野県内2社)を残すのみ。そのひとつ、同市で昭和3(1928)年創業した宮坂製糸所は、手作業での糸繰りを続ける唯一の製糸場です。現在は、岡谷蚕糸博物館内に併設される形で操業しており、上州式や諏訪式の繰糸機を使用した糸引きの技を間近で見ることができます。手仕事であることを生かし、染織作家などからの要望にも小ロットから対応できるのが特徴で、今もさまざまな生糸が引かれています。

09糸繰

宮坂製糸所は、伝統的な生糸の生産方式が残されている日本で唯一の製糸工場です

10糸繰アップ

熟練の技で糸の太さが均一になるよう糸を継ぎ足していきます

さらに、これまでの細くて均一でなければならないという既成概念から脱却し、多くの人に親しんでもらえる手の届きやすい糸を作ろうという思いから、太く扁平な「銀河シルク」を開発。シルクの「絹フィブロイン」という肌にもやさしい成分に着目した石鹸も好評を博してします。
「昭和50年頃から、国内の着物需要が急激に減って製糸業は厳しくなってしまいましたが、世界的に目を向ければ、シルクの生産は伸びているんです。これからもいろいろな可能性が広がっていくと思います」と宮坂製糸所の2代目で現会長の宮坂照彦さんは語ります。

11生糸

太さや色合いが違う、さまざまな生糸が作られています

12シルクソープ

シルクの成分がたっぷり配合された石鹸は、普通の石鹸と全く異なる絹のような泡立ちが特徴

13宮坂会長

製糸機械や手法を継承しながら、新しいことにも挑戦したいと語る宮坂会長

諏訪湖畔に立ち並んでいた製糸場の多くは、その建屋や設備、人手などを生かしながら、精密機械工業へと変貌。製糸業で培われたモノづくりへの気概はこの地に大きな根を張り、今も長野県の産業を牽引し続けています。

生まれ変わる岡谷シルク

国登録有形文化財でもある旧山一林組製糸事務所。大正ロマンにあふれ、製糸業の全盛時代を肌で感じられる建物の中では、岡谷絹工房のメンバーが絹織物の伝統を受け継ぎ進化させようと、シルク製品の制作活動を行っています。

14岡谷絹工房外観15内観

大正10年(1921)に建築された旧山一林組製糸事務所が岡谷絹工房の活動拠点となっています

20年前に工房の発足を担ったのは、同市出身で日本人として初めて国際インテリアデザイン賞を受賞したテキスタイルデザイナーである故 宮坂博文氏。東京の有名ホテルの内装を手掛けるなど、作品は国内外で広く認められ、戦後の沖縄ではミンサー織などの伝統工芸の復興にも尽力。故郷の岡谷市でも、緯糸だけで模様を表現するゴブラン織りの作品を製作するなど、岡谷シルク復興のための礎をつくってきました。
現在、岡谷絹工房では、手染め手織りの独特の風合いのあるシルク製品を制作。織りの技術の高さと表現の豊かさを生かした製品が注目を集めています。
作品は年に一度の工房のクラフト展で販売するほか、近隣店舗でも購入可能。アパレルや呉服屋などからのオーダーにも対応。普及活動の一環として行っているストール織り体験なども好評です。

1617作業風景

岡谷絹工房では、宮坂製糸所で作られた独特の質感のある絹糸使用した製品が作られています

18小山さん

「当時は、糸も生地もよく分かっていない人の集まりだったから、先生も大変だったと思う」と宮坂氏の指導を受けた代表の小山町子さんは話します

「真似ではなくオリジナルをつくれ」が口癖だった宮坂氏。そのスピリットに応える新製品がいよいよ誕生します。
「岡谷は世界一を極めたシルクの町。だからこそ養蚕から織物まで全ての工程を市内で行った本当の“メイドイン岡谷”を作りたいと思いました。そして、岡谷に眠るたくさんのシルクのストーリーを伝えたい。そんな思いで、第一弾に“風呂敷”を企画したんです」と語るのは、地域おこし協力隊として岡谷シルクの広報とブランディングに携わる佐々木千玲さんです。製糸場の経営者は工女さんをとても大切にして、お土産として味噌やシルク製品を風呂敷に包んで持たせていたという逸話や、シルクのエコバック、ひざ掛け、ストールなど、幅広い用途で使えることなど重視。日常的に使ってもらうことで、シルクの肌ざわり、頑丈さ、使い込んだ風合いなどを感じてほしいという思いも込めました。
「岡谷からもっとシルクの魅力を伝えていきたい。岡谷に来てもっとシルクの魅力を感じてほしい。そのために新しいシルク文化を岡谷から作っていきたいですね」と佐々木さん。
岡谷シルクの変態が、まさに今始まりつつあります。

19風呂敷

柄や厚さなど試作が進められている風呂敷

20佐々木さん

岡谷シルクのブランドを改めて世界に発信したいと語る地域おこし協力隊の佐々木さん

岡谷蚕糸博物館 シルクファクトおかや

宮坂製糸所

岡谷絹工房

※この記事は2022年1月時点の情報です。取扱商品等は変更になっている場合がございますので、ご了承ください

 

 

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