【特集記事】信州の冬 伝統の風物詩 vol.2
上田の信州を飾る風物詩 八日堂縁日と蘇民将来
2023.12.15
信濃国分寺住職 塩入 法道さん(左)
信濃国分寺復興会参与・八日堂縁日対策委員会副会長 金井 昇さん(右)
奈良時代、聖武天皇の勅願によって天平13(741)年に建立された上田市の信濃国分寺。地域の中心的存在として、長い歴史の中で民衆に信仰され、地元では「八日堂」とよばれ親しまれています。
ここで毎年、1月7・8日に開かれるのが「八日堂縁日」です。だるま市や露店が立ち並び、初詣も兼ねて県内外から多くの参拝者が訪れます。その際に頒布される厄除けや疫病退散、子孫繁栄などを願う護符が「蘇民将来符(そみんしょうらいふ)」。寺で用意するものと、「蘇民講」とよばれる地域の人々が作る七福神の絵柄入りの「絵蘇民」の2種類があり、絵蘇民は8日の朝8時からの頒布に限られるとあって、大勢の人が求めてにぎわいます。
「蘇民将来符」は、日本各地の寺社で紙札や木のお守りなどの形で伝わりますが、信濃国分寺のものは六角柱のこけし型と非常に特徴的。信濃国分寺所蔵の古文書『牛頭天王之祭文』(1480年書写)によると、室町時代にはすでに頒布されており、江戸時代前期の信濃国分寺の八日堂縁日の様子を描いた絵図『八日堂縁日図』(信濃国分寺資料館収蔵)からは現在のような角柱形で8日朝から販売され、盛況だったことがわかります。
「信濃国分寺は三重塔以外は戦国時代に焼失し、史料が残っていないため八日堂縁日の起源はわかりませんが、貨幣経済の発達に伴い、自然発生的に市が立ち、蘇民将来符という民間信仰も取り入れて新たな発展を遂げたと推測されます。蘇民将来符の形の変遷も定かではありませんが、江戸時代になって世の中が落ち着き、農民も蘇民将来符作りに手をかける余裕が出て、凝った立体型に形状を工夫したと考えられます」
こう話すのは、信濃国分寺住職・塩入法道さんです。
また、「父から聞いた話では、かつて焼失した信濃国分寺を江戸時代に再建した際、協力した集落の農民が絵蘇民の頒布を許可されたのが現在の蘇民講と絵蘇民のルーツ」と語るのは、御年88歳の蘇民講員の一人、金井昇さんです。
かつての様子が記された古文書には35軒もの蘇民講の家の名が残されており、金井さんによると、江戸時代には地域の大半が蘇民講だったと推測されるのだとか。絵を描く伝統は、代々家ごとに継承され、金井さんも父から受け継いだ技で絵蘇民の制作に励んでいます。
「下絵もなく墨で描くので驚かれることもありますが、七福神の絵が頭の中にしっかり入っているので自然と描くことができます。蘇民講員の中には、世相に応じて五輪のエンブレムや新幹線などの絵を追加する人もいます」(金井さん)
絵蘇民の本数には限りがあり、現在は1軒あたり大 10本、中23本、小30本、合計63本と定められています。一方で、今も絵蘇民を作り続けているのは11軒のみ。後継者不足が課題になりつつある中、寺では素材の原木であるドロヤナギ(ヤマナラシ)の木を植木したり、寺で用意する蘇民将来符は近在の檀信徒にも“準”蘇民講として制作を手伝ってもらうなど、門戸を少しずつ広げています。
「ドロヤナギは木肌が白くて年輪も目立たず、柔らかくて加工しやすい材ですし、15世紀に記された文献にも蘇民将来符にヤナギの木を使うよう示されています。しかし、近年は山中に自生するドロヤナギが不足していることから、平成5(1993)年に、当時の上田営林署の協力のもと、組合をつくり、約3万本の苗木を育てて地域の山に植林しました。地元では正月に蘇民将来符を求めないと1年が始まった気がしないと言う人も少なくありません。最近ではメディアでも取り上げられ、首都圏から買いに来る人もいます。その気持ちに応えるためにも、伝統を守りつつ工夫して頒布を継続していきたいですね」(塩入住職)
地域内には江戸時代からの蘇民将来符を大切に集め続けている家庭もあるそう。毎年「八日堂縁日」の開催に合わせ、信濃国分寺資料館では江戸時代から残る地域の蘇民将来符や、現存する11軒の蘇民講の絵蘇民の展示も行われています。六角柱の愛らしい形の護符は、地域の人々の心の拠り所でもあります。
信濃国分寺
上田市国分1049
電話:0268-24-1388
https://www.shinano-kokubunji.or.jp/
※この記事は2023年12月時点の情報です。